金色と侘び
仏像は信仰の対象ではあるが
美的視点からも関心を集める。
仏像が古くなり傷み、錆び付いたものでも
そこに、かえって歴史的年輪を感じて
仏像の姿に人は惹きつけられる。
例え、手や足がなくても
顔さえなくても仏像の良さを感じることもある。
日本人独特の、侘びや
寂びの文化が後押しする。
古いからこそ、新しいものにない良さを
感性として持ち合わせている日本人も多い。
仏像ガールの言う、勉強しなくていい。
とにかく仏像に会って下さい。
そこで感じたままの感性が命という意味も分かる。
一方、この仏像は本来は金色に
輝いたと言われると一瞬戸惑う。
鎌倉の大仏が当初は金色だった。
その名残が左の頬にあると言われると
理屈では分かっていても今とは違う大仏を想像し難い。
世界遺産となった中尊寺金色堂のように
眩しいばかりに燦然と輝く世界の良さもある。
この場合、侘びの仏像を金色の仏像に想いを馳せる必要はない。
ただ、気になるのは「今、見ている仏像は昔とは違う」
かも知れないという一点だ。
同じ神秘的な仏像でも
古人の釈然と輝く仏像の「強さ」にすがる信仰対象が
現代人の「癒し」の美的対象となる変遷の一つに
こんなところにヒントがあるのかも知れない。
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